東海ラジオ番組アーカイブ
渋沢栄一と福沢諭吉「独立自尊」の伝承 第1話「新紙幣誕生」
東海ラジオ2024年10月7日放送
2024年7月3日、新紙幣発行に合わせて東京取引証券所・東証アローズで新一万円札引継式が行われました。式では福沢諭吉の故郷、大分県中津市・奥塚正典市長、渋沢栄一の故郷、埼玉県深谷市・小島進市長をはじめとする、偉人ゆかりの企業や学者が集い、近代偉人が遺した思想、理念を受け継ぐ象徴的な式典となりました。
その式典に、地域活性化や経済史を研究する橋口教授のゼミ生が参加し、奥塚市長、小島市長に偉人の理念をどのように後世に伝えていくのか質問しました。
渋沢栄一の生涯を読み解く第12話「近代国家の基礎を築く」
東海ラジオ2024年9月30日放送
渋沢栄一は明治2年、政府民部省に新設された改正掛の掛長に就任します。当時の精鋭人材が集められた改正掛を取りまとめる渋沢は、郵便、銀行、貨幣、鉄道、太陽暦、度量衡、公営事業など重要な社会基盤となる、およそ200の制度をわずか2年間で制定します。
また、改正掛は政府シンクタンクの役割があり、各省庁の組織作りを手掛けるなど、近代国家に大きな影響を与えます。
官僚として成果を挙げた渋沢は、富国強兵政策に前のめりになり歳出過多を続ける政府との対立により、明治6年、官僚を辞し実業家として歩き出します。
渋沢栄一の生涯を読み解く第11話「挫折と葛藤と忍耐」
東海ラジオ2024年9月23日放送
渋沢栄一は最初の事業となる商法会所を軌道に乗せ、民間事業の規範として全国への展開を目指します。その矢先、明治政府から民部省租税正(現在の主税局長)として出仕を強く要望されます。ヨーロッパ視察で、民間事業の力強さを実感した渋沢は、頑なに出仕を断ります。
しかし、政府からの依頼を断り続けることが、主君だった徳川慶喜や静岡藩へ影響を及ぼすことを懸念し、当時、民部大輔だった大隈重信に直談判に向かいます。
大隈は渋沢に、国の基盤を整備しない限りは、民間事業も育たないと説得します。渋沢は大隈の考えを受け入れ、明治2年から4年間、政府役人として租税法、度量衡の制定など国の根幹を作ることになります。
29歳で政府に出仕した渋沢は、挫折と葛藤を乗り越え、強い国を作るという目的のために忍耐を重ね、責務を全うします。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第10話「実業界への出帆」
東海ラジオ2024年9月16日放送
ヨーロッパ視察から戻った渋沢は、主君徳川慶喜への報告を終えると官途を断ち実業家への転身を宣言します。
当時の経済界は小売業や金貸業が中心で、人々には「賤商意識」があり、エリート官僚の道を捨てることは大きな決断でした。
時同じくして明治政府が発行する紙幣の流布を目的にした政府貸付(石高拝借金)が静岡藩に53万両割り当てられます。資本の活用に戸惑う人々を尻目に、渋沢は藩との繋がりを生かし、貸付金を運用する「商法会所」を立ち上げ銀行・商社業務を行います。
渋沢が商法会所頭取として実業の道を歩み出したのは、帰国後わずか数ヶ月後のことです。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第9話「目的意識と実行力」
東海ラジオ2024年9月9日放送
渋沢栄一が徳川昭武の随行員として、1867年から約1年半ヨーロッパに滞在しました。先進国を視察したこの経験が帰国後、民間に下りさまざま事業を起こす基礎となります。
渋沢は、パリでナポレオン3世の演説を聞いた翌日、その演説内容が新聞に掲載されるという情報流通の早さに感銘を受けます。「情報」の重要性を熟知していた渋沢は、製紙業、新聞社を興すことになります。
また、ベルギーでは国王と接見したとき、当時14歳の昭武に対し国王自らが自国産業の製鉄のセールスを行う姿を見て、国力とは政治、軍事、そして経済が作り出すものであり、豊かな国づくりのために、官と民が力を合わせる必要性に気付きます。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第8話「福祉事業の起点」
東海ラジオ2024年9月2日放送
渋沢栄一がヨーロッパ先進国から学んだことは産業、経済社会だけではありませんでした。フランス・パリのナポレオン1世が眠る教会を含む「アンヴァリッド」と呼ばれる一帯にある廃兵院では、戦争で傷を負った人々の社会復帰の支援も行なっており、その仕組みに渋沢は感銘を受けます。また、動植物園や競馬場などの娯楽施設が社会福祉に還元されていることにも着目します。 20代後半の青年、渋沢は人々の「豊かさ」を実現するためには経済活動の発展だけではなく、福祉事業の重要性にも気付き、生涯を通じて多くの福祉事業も展開することになります。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第7話「合本思想の起点」
東海ラジオ 2024年8月26日放送
1867年パリ万博に向かう渋沢を乗せた船はスエズ湾を北上しスエズに上陸、鉄道に乗り換え地中海の港町アレキサンドリアに向かいます。渋沢はその道中で見た建設中のスエズ運河(1869年開通)の事業規模の大きさに驚き、そして、日本の近代化には民間の資本を集めてこそ可能になる大事業、その経済的仕組みが不可欠だと気付きます。また、スエズ運河がもたらす公益性にも着目し、この旅程での経験が渋沢の「合本」思想の原点となります。
渋沢栄一の生涯を読み解く第6話「パリ万博へ出立」
東海ラジオ 2024年8月22日放送
徳川慶喜が第15代将軍に就任した1867年、ナポレオン3世よりパリ万博への出席を要請され、慶喜は弟の徳川昭武を名代として使節団を派遣します。渋沢は庶務会計係として随行し、詳細な日記を残しています。そこには、航海中に提供される西洋料理や飲み物、寄港した国々の様子が渋沢の目線で描かれています。
ほんの数年前まで攘夷志士として西洋を敵視していた渋沢が、積極的に西洋文化を吸収しようとするその「転身」からは、より良い国を造るという目的のためには、最善の方法を見極め、手段を変える事ができる渋沢の柔軟性が伺えます。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第5話「一橋家の敏腕家臣」
東海ラジオ 2024年8月17日放送
一橋家家臣平岡円四郎に見出された渋沢は、一橋家当主徳川慶喜(のちの第15代将軍)の家臣となり軍備増強や財政改革を成し遂げます。 軍備増強のための農兵募集を願い出た渋沢は、それまでの強制的な徴兵ではなく農民と対話し、志を説くことで自発的な協力を促し、また財政改革では安定した経済活動を確立させました。 この功績は、郷土血洗島で培った情報収集能力、実践主義によって実現したと考察できます。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第4話「先を見据える」
東海ラジオ 2024年8月5日放送
青年期の渋沢栄一は幕末の身分制度、官尊民卑に対して疑問を持ち、開国以来高まる欧米列強の圧力から国を守ため尊王攘夷活動に傾倒します。しかしその活動の現実を知り、自分の目的は命を捨てることではなく、自らの手で国を変えることだと考え至ります。その後御三家の一つ、一橋家に仕官し、のちの偉業の道筋をつけることになります。 攘夷志士から幕臣へ。それはより良い国づくりへの情熱と、情報を収集し、冷静に考え、すべきことを見通す力が発揮された転換です。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第3話「尾高惇忠の『育教』」
東海ラジオ 2024年7月29日放送
多岐にわたる企業・団体に関わった渋沢栄一の柔軟な思考の原点は、青年期の恩師、尾高惇忠の教育にあると考えられています。尾高塾の教育の特徴は、塾生自らが徹底して考え理解すること、また塾生の好奇心を尊重し、興味を持った事柄を学ぶことを奨励したことにあります。
時には「無節操」とまで言われる渋沢の旺盛な起業活動は、国のあり方を俯瞰し、膨大な情報を集め、渋沢自らの試行錯誤の結果であると推察すると、広い見識と洞察力に着目した尾高の「育教」は、渋沢の事績へ大きく影響したと言えます。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第2話「実践主義の原点」
東海ラジオ 2024年7月22日放送
渋沢栄一が説いた「実践主義」の原点は血洗島村にあったと考えられています。父・市郎右衛門から経営と地域社会のあり方を、母・ゑいから慈しみの心を自ら学んだ渋沢栄一は、両親のもとでその学びを実践し、後の偉業の基礎を固めます。由緒ある渋沢家を担う自覚と両親からの学びが、日本という大きな「近代家族」を導くことになります。
渋沢栄一の生涯を読み解く 第1話「地域経済の要衝『血洗島』」
東海ラジオ 2024年7月20日放送
渋沢栄一の故郷、血洗島は中山道深谷宿として栄えました。また水運の拠点として商業活動が行われていました。血洗島の土壌は稲作に不向きで、年貢を米の代わりに通貨を納めていたため、時代に先駆けて通貨経済を発達させていました。日本経済を形作った渋沢栄一は、幼少期から経済社会に慣れ親しんでいたと考えられています。
持続可能な社会を目指す
東海ラジオ 2024年7月8日放送
井上顧問が渋沢研究を続けきた中で見えてきた社会の傾向の一つとして、経済が不安定になると渋沢栄一に関心を持つ企業人が増えるそうです。 その理由の一つに渋沢が「日本資本主義の父」だからではなく、企業の社会的責任とその倫理の実践者として残した事績にあると推定されます。
「正しい」利益追求にこそ持続可能だと説いた基底には論語があり、その渋沢の哲学は100年の時を経てもなお求められています。
過去の知恵は現代の学び
東海ラジオ 2024年7月1日放送
渋沢史料館井上顧問が大切にしている研究理念は「今見えることから過去を掘り下げる」。渋沢栄一を現代に照らし合わせてこそ学びがあります。これから始まる渋沢栄一塾の第1回目。